【再読記録】嫌われる勇気④ 〜人はみな自分のためになること(善の行動)をする〜
人はみな自分のためになることをする。
ここでは、自分のためになることを「善」。自分のためにならないことを「悪」とする。この善と悪は世間一般的な善と悪ではなく、あくまで自分のためになるのかならないのかということだというところをおさえておいてほしい。
つまりどういうことかというと
世間一般的な善の行為とは、道端に落ちているゴミを拾ったり、慈善事業をしたり、困っている人がいたら手を差し伸べたりすることだ。また世間一般的な悪の行為とは、犯罪を犯したり、ウソをついたり、人をだましたりすることだ。
だがその世間一般的な善の行為も悪の行為もその人にとって自分のためになる行動かどうかというのはその人にしかわからない。
その人にとってたとえどんな行為でもその人のためになる行為であれば、それはすべて「善」となる。
たとえ犯罪に手を染めてしまうようなことになっても、そこにはその人なりの理由があり、それが自分のためになるような行為であればそれはあくまでその人にとって「善」の行為となる。
ここで考えたいのは
純粋な意味での悪(自分のためにならないこと)を欲する
ということである。
自分のためにならないことを誰もやろうとはしないはずである。だから行為としての悪(犯罪)などをしてしまう人もその行為には「しかるべき善(自分のためになる)の理由」があるはずなのである。
ということはもし今自分は不幸だと感じている人がいれば、その人は「不幸であること」が自分にとっての「善(自分のためになる)」だと判断していることになる。
ウソだ!!と思う人にも必ず「不幸であること」を選んでいるのには何かしらの理由がある。いやいや自分が不幸なのは自分の性格やが悪いんだ!!性格はもって生まれたものだからしょうがないという人もいると思う。だが性格というのも後天的なものである。
この性格や気質というものを「ライフスタイル」という。
「ライフスタイル」とは、その人が「世界」をどう見ているか。また「自分」のことをどう見ているか。これらの「意味付けの在り方」を集約させた概念=人生の在り方である。この「ライフスタイル」は先天的に決まっていて、変えることができないものではない。自ら「ライフスタイル」は選んでいるのだ。
つまり、「ライフスタイル」はいつでも変更可能なのである。よって性格も変えることができる。だがみんなが変わりたいけど変われないと思っている。
これは、
自分に対して「変わらない」ということを決心しているからだ。
自分の「ライフスタイル」を変えないことがその人にとっての「善(自分のためになる)」となる行為と思っているから変わらないのだ。
本当に変わりたいと思っているのならこの「ライフスタイル」を変えたほうがいい。そこには変えることを決断し、行動していくための勇気が必要になってくる。
以前までの再読記録はこちら
【再読記録】嫌われる勇気① ~原因論と目的論~
【再読記録】嫌われる勇気② ~感情は道具である~
【再読記録】嫌われる勇気③ ~自分に与えられているものはなにか~